SF-tuzureoriF16


SF綴れ織り

TommyおじさんのSF綴れ織り(2000-16)

−2000年9月3日−


『ブレードランナー3/レプリカントの夜:K.W.ジータ』


 六月に『ブレードランナー2』の感想をアップして、その感触も
消えぬうちに、この『ブレードランナー3/レプリカントの夜』を
読むことができた。                     

 前作の『ブレードランナー2』も、そしてこの『ブレードランナ
ー3』も単行本が上梓され書店の棚に並べられたとき、買ってまで
読む気にはなれなかった。その実感を「解説」で冬樹蛉氏はうまく
言い当てているように思う。ディックファンにとって、傑作『アン
ドロイドは電気羊の夢を見るか?』はリドリー・スコットの映画で
ある『ブレードランナー』とは別物であり、また映画は映画で好き
であった私のようなフリークにとって、ジータの続編はそのどちら
をもぶち壊してしまいそうな<怖れ>を予感させたからだろう。 
 そのような危惧に関しては、ジータはまあまあの及第点を獲得し
たと言ってもいいだろう。このシリーズを読み続けるとき、たしか
に映画ブレードランナーの主人公たちが、その印象を変えることな
く躍動し、この『ブレードランナー3』でシリーズはディック的な
世界へ着地することができたのかも知れない。         
しかし、「それで感想は?」って言われてもね・・・      

 アイデアやガジェットは、なるほど前作2の前振りがよく効いて
いて、外宇宙への植民基地である<火星>や、<サランダ−3号>
が、人間とレプリカントとの違いは何なのか、という根源的な問い
を喚起する仕掛けとして効果的に配置される。結局、ジータはこの
根源的な問いである<人間とはどのような存在なのか>に回帰する
ことでしか、このシリーズを続けることができなかったのだろう。

 本作でも登場人物の中心は映画でお馴染みのデッカードと、そし
てレプリカントであるレイチェルの原型であったサラのふたり。 
 映画がヒットした頃、デッカードもレプリカントではないか、と
いう噂が飛び交ったことを思いだすような結末が用意されている。
 またブレードランナーの同僚であったホールデン、科学者のセバ
スチャンや、レプリカントのロイ・バティ(の原型であった二作目
で登場する人間ロイ)などがシリーズらしい登場のしかたをする。
 しかし<ミームティック(情報模倣遺伝子)爆弾>とか、<地球
自体を中心とする形態形成場の仮説>などはご都合主義的すぎてシ
ラケテしまうね。多くは語るまい。そのほうが、それなりに楽しめ
るというものだからね。                   

 人間がレプリカントで、レプリカントが人間。すべてはタイレル
社のモットー『人間以上に人間らしく』に帰結していく。ジータは
このひとつの着想を、<人間とはどのような存在なのか>という問
いに拘泥しながら、シリーズの視座の中心に据えたのだ。    

 だがジータは、ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見
るか?』に流れる哀しみ、スコットの映画『ブレードランナー』に
流れる哀しみを凌駕することはできなかった。私たちは切ない哀し
みを通して、根源的な問いへと誘われる存在なのかもしれないね。




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