SF-tuzureoriF13


SF綴れ織り

TommyおじさんのSF綴れ織り(2000-13)

−2000年6月18日−


『ブレードランナー2/レプリカントの墓標:K.W.ジータ』


 96年に早川書房の海外SFノヴェルズから刊行され、書店では
何度も立ち読みし、購入を躊躇っていた。今年4月に文庫本として
発刊された。やっと購入して、じっくり読んでみた。良くも悪くも
予想通りだった。                      

 これは、小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の続編で
はなく、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』を継
承する物語だった。もちろん、ジータは熱烈なディックファンだそ
うで、小説から継承したエッセンスもあったのだが、これはやはり
映画の続編、ブレードランナー2であった。          

 私は、映画『ブレードランナー』を何度も観た。あの近未来の酸
性雨の降りしきる都市を、そしてレプリカントの哀しみを、よく描
いたリドリー・スコットの名作だと思っている。この映画を観る前
から原作者P.K.ディックのファンだった私にとって、小説はあ
くまで、一連のディックの作品群に属するもので、映画はスコット
のものとしか受けとめられなかった。その分裂した印象が、ジータ
の書いた続編である、この作品を読むことを躊躇わせたものの正体
だったのだろう。そして、あらためてこの作品を読み、その予測を
裏付けられた。                       

 どうしても読み進む私の脳裏では、デッカードはハリソン・フォ
ードだし、ロイ・バティはルトガー・ハウアーで、レイチェルはシ
ョーン・ヤングなのだ。その意味では、見事に映画を継承している
とも言える。だが、映画『ブレードランナー』では暗示的に表現さ
れていた<人間とレプリカントの差異とは>というテーマをこれほ
どしつこく繰り返されると<面白くない>と感じてしまう。本来、
映画の続編として書かれたこの『ブレードランナー2』が、映画化
されなかった理由もわかるというものだ。最初から最後まで、物語
の直接的なテーマとして「誰が本当は人間で、誰がレプリカントな
のか」と執拗に描かれることに食傷気味になってしまうのは避けら
れない、と思う。ジータの欠点は、作品「ダーク・シーカー」でも
「垂直世界の戦士」でも同様だった、と思う。暗示的であることの
効果をもっと信じていいのではないか。或いは「小説」という表現
の観念的な地平に没入してもいいのではないか。(まあ、SF全体
にも言えることで、このあたりで巧みだったのはディックひとりと
も言えるが・・)そこが、リアリティがなくとも、心的な世界とし
ては了解できる、というディックの作品群とは決定的に違うところ
だと言える。ジータのイマジネーションは、その意味では映像的な
地平にあるからなのだろう。                 

 だが、ジータがこだわった<人間とは>という問いは、人工的な
知性体が産まれたときには、避けられない主題である。そこまで待
たなくとも、私たちが<人間性>であるとか、ヒューマンであると
信じているものは何なのか、という問いとしてコンテンポラリーで
あるだろう。ディックが「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
を書いた頃には、権力者のような大きな力を持つ社会的存在の狂気
の普遍性が主題であったし、そのような悪に立ち向うムーヴメント
がなぜ同様の狂気を孕んでいくのか、と問わねばならなかった。 
 今、日本では、10代の少年たちの晒されている<狂気>とは何
なのか、と問わねばならなくなっている。問いはループしているの
だろうか。是非、続編の「ブレードランナー3」も読んでみようと
思っている。早く文庫本化されることを期待している。     




forward

back

top
1