SF-tuzureoriF08


SF綴れ織り

TommyおじさんのSF綴れ織り(2000-8)

−2000年4月15日−


『ミクロ・パーク:ジェイムズ・P・ホーガン』


 どうも私は70年代後半から80年代のホーガンを、巨人三部作
の頃のホーガンを偏愛しすぎてきたのかもしれない。ハードSFと
いう潮流のトップランナーだったホーガンに耽溺しすぎたのかもし
れない。現在のホーガンをありのままに認めたほうがいいと、やっ
と思えるようになってきた。前作の「仮想空間計画」でも、その前
の「造物主の選択」のときも愚痴ってばかりいた。<ポリティカル
・サスペンス>ものから、いつか巨人三部作の頃のホーガンに戻っ
てほしい、という願望が強すぎたのだろう。この『ミクロ・パーク
』を読んで、少しは折り合いをつけることができたように思える。

 ただ、この『ミクロ・パーク』という邦題はないでしょう。原題
の『BUG PARK』でいいと思うのだけれど、東京創元社殿。

 物語はいたってシンプルで、マイクロ・ロボットとDNC(ダイ
レクト・ニューラル・カプリング=直接神経接続)というVR(ヴ
ァーチャル・リアリティ)の新技術が中心にあるだけで、テクノロ
ジーからみた奇抜さを狙っているものではない。むしろ、そうした
テクノロジーについては、リアリティをのみ追求しているといって
良いほどである。小説としての大部分は、最近のホーガンお馴染み
の、企業政治、陰謀が渦巻くサスペンス仕立てとなっている。通常
、SFの作品では、物語の主軸をなすであろうマイクロ・ロボット
とDNCが、むしろサスペンスの道具立てとなっている。そのあま
りにサスペンスに傾倒したタッチが、嫌味になっていないのは、マ
イクロ・ロボットに耽溺しているハイテク少年たちへの、作者のシ
ンパシーが最後まで薄れることがなかったからだろう。主人公のケ
ヴィンや、友人のタキといった少年たちへの作者の思いが伝わって
くる。                           
 だが、少年たちや、ケヴィンの父エリック、弁護士のミシェル、
そして同僚のダグが<善意>や<良心>を代表していて、ケヴィン
の継母ヴァネッサや、ライバル会社の社長マーティンが<悪意>や
<陰謀>の側にある、といった図式は、最後まで社会的なリアリテ
ィを獲得したとは言い難い。むしろ、ホーガン自身がサスペンスに
こだわるあまりに、登場人物をこのように誇張せざるをえなかった
としか思えない。とりわけ、継母のヴァネッサが自分の利益のため
に、マイクロ・ロボットを使った暗殺、殺人に突き進んでいくあた
りなどは、とてもリアリティがあるとは思えない。そのあたりを除
けば、小説の読後感は決して悪くはなかったのだが。      

 全編を通して、ホーガン自身の人間観や社会観が伝わってくるこ
とはなかった。きっと、ホーガンは社会を箱庭のようにしか見られ
なくなっているのだろう。巨人三部作の頃のように、人類の未来を
壮大に構想するといったことが空しくなってしまったのかも知れな
い。それはホーガン自身の問題であるに違いない。私たちは、そん
なホーガンと折り合うしかない。きっと、80年前後のホーガンや
私たちは、コンピュータに象徴される新たなテクノロジーが、人類
社会をどのように変容させていくのか、能う限り遠くまで見渡そう
と、少し気負っていたのかも知れない。非力な有機的生命体である
人類を継承するのは、自己再生機能をもったメカニカルな人工知性
体であるかも知れない、と本気で思っていたのだから。そして、ミ
レニアムを迎えた私たちは、現在も人間は人間であるが故の問題を
抱えているという現実に向き合うべきなのだ、と考えている。  
 そうした了解によって、やっと今のホーガンと折り合うことがで
きる、ということなのだろう。最近のホーガンは多作である。90
年代の作品で邦訳されていない作品も多い。ホーガンファンとして
は、やはり期待し続ける他ないのだろうか。きっと、そうだね。 




forward

back

top
1