SF-tuzureoriF02


SF綴れ織り

TommyおじさんのSF綴れ織り(2000-2)

−2000年1月9日−


『終わりなき平和:ジョー・ホールドマン』


 前作『終わりなき戦い』を読んだのは20年以上も前のことだっ
た。異星人トーランとの泥沼の戦いは、当時のベトナム戦争の印象
を強く連想させ、けっして後味のよいものではなかったことをぼん
やりと記憶している。おじさんのSFデータベースのなかでは最低
のランクづけとなっていた。その程度の記憶だったので、本作を読
みはじめても、20年以上も前の作家ホールドマンの印象は戻って
こなかった。諦めて、初めて読む作家のつもりで読みはじめた。 

 <平和>という単語が現在のように薄っぺらな印象しか与えなく
なって、どのくらい経つのだろうか。いや、その語彙だけでは<虚
偽>や<嘘>といった印象さえ与えるようになって久しい。   
 この<平和>という主題をホールドマンはどのように扱うのか、
私には推測すらできなかった。読みはじめると、この作品は決して
20年前の続編ではなく、コンテンポラリーなセンスと問題意識に
充ちていることが了解できた。さまざまなガジェットは、ホールド
マンが現役のSF作家であることを証左している。だが、私はホー
ルドマンの作品と言えば、前作『終わりなき戦い』を読んだことし
かなく、彼がどのような問題意識で作品を書き続けていたのかも知
らなかった。だが、この物語は<大いなる大人の夢想>として笑う
ようなものではない、と共感できるところがある。<平和>という
単語が意味するものとは対極の状態を私たちは知っている。つまり
果てしなき<人間と人間>の闘争、<戦争>といった状態。今では
大国間の戦争は人類を破滅させてしまうことの恐怖から、<戦争>
は<内戦>や局地的な<地域紛争>といったかたちへと変貌はして
いるが、一向に絶えることはない。もしも、これらの<終わりなき
戦い>がこの作品のような夢想として<終焉>するとしたら素敵か
も知れない。或いは、この作品で描かれるような夢想として<人間
と人間>が互いの経験を真の意味で共有し、互いを傷つけあうこと
を放棄することが可能ならば、素敵なことなのかも知れない。  
 しかし、やはりこれは大人のファンタジーだね、と苦笑まじりに
楽しむのが妥当なのかも知れない。              

 ここで描かれる戦争は、中南米やアフリカで言わば代理戦争とし
て闘われる類いの枠組みにある。現代の<戦争>そのものであると
言ってもいい。”持てる者”と”持たざる者”の戦い。民主主義の
守護者という錯覚で世界の警官を自認する者と、貧しいイデオロー
グに導かれた強権的カリスマに率いられた武装勢力との対立。現代
の”南北対立”そのものであったりする。舞台となる西暦2043
年という近未来は、《ナノ鍛造器》というドリームマシンを得て、
無尽蔵に富を産み出せる<楽園>となっている、ということはあり
えないわけで、《ナノ鍛造器》は一部の先進国が独占しているため
新たな”南北対立”が生まれているという設定である。どんなSF
的なガジェットを持ってきても、この作品が<現在>そのものから
離脱しようとしない前半部分は共感できる。だが、後半に至るとこ
ろからは途端に私たちは<宇宙そのものの終焉>といったサスペン
スにつきあわなければならなくなってしまう。《ジュピター計画》
という<宇宙開闢>つまりビッグバン直後の状態を再現しようとす
る大プロジェクト。巨大な粒子加速器を木星軌道上に作るこの計画
が、宇宙そのものの終焉を招くというサスペンスに転化するのだ。
このあたりの強引さはいかにもSFらしい、と笑って許そう。  

 とにかく「ソルジャーボーイ」と呼ばれる《遠隔歩兵戦闘体》と
いう着想はいかにもありそうだ。主人公ジュリアンはそのソルジャ
ーボーイを操る《機械士》であり、物理学者でもある。遠隔制御の
手法にはもっと現実的な方法はいくらでもありそうだが、敢えてホ
ールドマンは、十人単位の小隊が脳に直結したジャックから精神移
入し、かつ10人ともが互いの精神状態を共有した状態で、遠隔地
にあるロボットを制御するという設定を選んでいる。これは後の物
語の展開に直接関わる布石でもある。つまり、人間が相互に理解し
あうための、もっとも直接的な方法を暗示しているからである。 

 このソルジャーボーイたちはフルタイムの兵士ではなく、徴兵に
よって選抜されたパートタイムの兵士という設定も面白い。主人公
ジュリアンは前述のとおり物理学者でもあり、殺人という行為をい
つも負担に感じる普通の人間であり、繰り返される殺人のなかでや
がて自殺願望を募らせていく。彼と年上の恋人アメリアの描かれ方
にも共感を覚えるところが多い。物語は<精神移入>というハイテ
クが、何故か人間を博愛主義者に変貌させるという強引な展開で大
団円を迎えるのだが、主人公ジュリアンとアメリアは、その<精神
移入>という能力を失って、またふたりきりとなる、という結末を
迎える。この結末に、私がシンパシーを覚えるのは何故だろうか。




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