SF-tuzureoriD6


SF綴れ織り

TommyおじさんのSF綴れ織り(99-12)

−1999年6月21日−


『エリコ:谷 甲州』


 待ち遠しくて仕方なかったから、文庫本ではないが衝動的に購入
した。やはり、同じ思いの人は多いらしい。初版は4月15日なの
に、私の購入した再版は5月31日付けとなっていた。甲州の作品
らしい作品だと思う。私はSFマガジンなどは読まない人なので、
連載されていたときは読んでいない。巷では、谷甲州という作家像
を裏切るような異色作というイメージが、連載時にはあったようだ
が、私にはやはり谷甲州らしい作品だなあ、と思えたものだ。だか
ら、当然のことながら一気に読み切ることができた。彼の作品を読
むときはいつも一気なのだ。これが彼の魅力を端的に語っている。

 「天を越える人々」のチベット青年僧ミグマの記憶は新しい。私
は谷甲州の作品のなかでも、このミグマの自問はよくわかった。谷
の問題意識のなかでも、この作品では輪廻転成という舞台を借りて
意識下の体験と、現代科学の明示的な問題意識とを、やや強引とも
思える手法で切り結ぶあたりはシンパシーを感じることができた。
だから、この作品では谷の剛腕ぶりが好ましくもあった。ところが
この「エリコ」でも基本的には谷の剛腕ぶりは継承されているのだ
が、私にはどうも得心のいかないところも多かった。      

 これまでの作品では許容範囲と思えた谷の説明癖が、「エリコ」
では、どうも気になってしかたなかった。物語の構造を然らしむる
ために、いたるところで<論理的な説明>を挿入しているのだが、
それはくどいとすら思えるほどで、その解釈は読み手に任してほし
いものだと思えるところまで、かっちり説明しきらねば得心がいか
ない、といった作者の完璧主義がいささか疎ましい。作品全体の構
造も予定調和気味と言ってもいい。おそらく、書きたい衝動に突き
動かされて書き綴ったというよりは、書くべき全体の構造を定めて
書き進んだに違いない。このような手法が谷甲州にとっては普通な
のかどうかはよく判らない。しかし、少年期のコンプレックスから
性転換にいたった筈の主人公エリコ(慧人)の人物像にも、当惑を
禁じ得なかった。なんだろう、弱さと強さが交錯している生々しい
人物像とはちょっと違うのだ。弱さに震えているときと、あまりの
スーパーウーマンぶりのときと、違った人物像が摺り替えられてい
るだけと言っては失礼だろうか。多重人格でもないし、ある時は少
年期のコンプレックスに執着し、ある時はスーパーセックスマシー
ンにチャネルが切り替えられる。だが、生々しい人物像として定着
できないのだ。その違和感は結末まで解消できなかった。この作品
は1年半にわたって連載されたものだそうだが、それが私の抱いた
違和感の遠因となっているのであろうか。作品の舞台となっている
22世紀の南大阪や上海も、書割りのようで白々しかった。その意
味では、馳星周の「不夜城」などのほうが、現実を超えるリアリテ
ィを獲得していた、と言ってもいいと思う。残念ながら、だ。  


 だからと言って、楽しめなかったわけではない。ネタとしては近
未来のバイオテクノロジー、クローンやドラッグ、そしてヴァーチ
ャルセックスに上海マフィアなどが鏤められていて楽しい。舞台が
月面のクラヴィウスに移ったあたりでは、やはりSFなんだ、と思
えてくるところなど、いとおかし。はちゃめちゃに見えて、実は谷
甲州自身のロジカルな世界観が作品全体を覆っていて、息苦しいほ
どだ。もっと、爛漫に放蕩する作品でもよかったのでは、と思う。


 作者のあとがきでは、テーマは『人類の進化』にあったそうだ。
ここには何か、勘違いがありそうだ。技術の進化を延長するところ
に人類の進化があるのだろうか。あるいは、現代社会の管理主義に
相対するところに、いやその対抗軸に人類の進化(可能性)がある
とでも言うのだろうか。それとも、もっとシニカルに社会の政治的
な側面では、進歩が実は停滞や退化であることもある、と独白する
ことになるのだろうか。谷甲州には、一度このロジカルな衣を脱ぎ
捨てて、突き動かされるままに書いてみてもらいたいものだ。その
可能性を信じることはできる。この人ほどの力量があれば、そうし
てみても失うものはないのではないか、と思う。期待したい。  








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