SF-tuzureoriD4


SF綴れ織り

TommyおじさんのSF綴れ織り(99-10)

−1999年6月5日−


『キリンヤガ:マイク・レズニック』


 SFとは「現代の寓話」でもある。レズニックは、よくこのこと
を熟知した作家であるに違いない。そして、この寓話は20世紀末
に生きる私達をこそ、突き動かすものであるに違いない。    

 私はマイク・レズニックの作品は殆ど読んでこなかった。稀代の
ストーリーテラーであるという風評も、たくさんの賞を受賞してい
ることも、私を揺り動かしはしなかった。この5月は、書店に出か
けても読みたいと思わせるものが並んでおらず、以前読んだ作品を
再読することばかりに費やしていた。クラークやディックを味わい
直すことで、SF生活を食いつないできたとも言える。少々、欲求
不満という気分でもあった。だから、綴れ織りも休止状態だった。


 正直に言って、そんな気分でいたものだから、たいして期待など
してはいなかった。もともと<ユートピア>などという概念は死滅
したものだ、と思っている人なので、テラフォームされた小惑星に
<ユートピア>を構築する物語なんて、嘘臭いとすら感じていたか
らだ。読み始めると、レズニックは<語り上手>であることに納得
した。たしかに、近未来の東アフリカの一部族<キクユ族>の人々
が出会うであろう「部族の伝承や伝統的生活」に対する<喪失感>
を見事に描きだしている。しかし、それでもテラフォーム世界にミ
ニチュアの<ユートピア>を形成するなんて、土台無理な話しだ、
と懐疑的な気分で読み進んでいく。レズニックの見事さは、実はこ
こからなのだ。この作品は、読み手が想定するであろう<疑念>を
ひとつひとつテーマとしたオムニバス構成となっている。    

 進化した科学やテクノロジーを拒否した、先祖がえりを志向する
<楽園>の構築。それ自体が進化した科学やテクノロジーによって
建設されたテラフォーム世界である、という矛盾。そのユートピア
である小世界を領導する祈祷師・ムンドゥムグ。部族の伝承・伝統
と、部族の神<ンガイ>への信仰を伝える知恵袋。物語りのなかで
キクユ族が拒否すべき<ヨーロッパ文明>と語られるものは、実は
進化した科学やテクノロジーを持つ全ての文化文明の総称である。
 ひとつでもそのようなテクノロジーを受け入れるならば、雪崩の
ように<楽園>は崩壊していくに違いない、と熟知している祈祷師
であるムンドゥムグ/コリバの葛藤が軸となって、物語りは綴れ織
られる。見事である。作者自身がいちばんのお気に入りと語ってい
る「空にふれた少女」などは、まるで宮澤賢治の世界のようだ。 
 微かな痛みが胸を刺し、いつまでも胸に残る。<知>への渇望を
抑圧する社会が、楽園である筈がない。無知が栄えたためしはない
のだ。少女カマリは普遍的な渇望する少年期そのものの表象として
見事に描かれた。少女カマリは、その短い生命の最後に、”籠の鳥
が死ぬわけを知っています−−鳥たちと同じように、あたしも空に
ふれたから”という二行連句を残す。少し青臭いだろうか。そう思
わせないレズニックの筆力を誉めるべきだろうか。寓話なのだ。 

 エピローグで、ムンドゥムグ/コリバは悲嘆のうちに語る。  
『ある社会がユートピアでいられるのはほんの一瞬なのだ。いった
ん完璧な状態になったあとは、どんな変化があってもそれはユート
ピアではなくなってしまうのだが、社会というのはそもそも成長し
して進歩するものなのだ。』                 
 この結末は、予め読み手が想定した疑念そのものである。私たち
は<戦争と革命>の時代と言われた20世紀の体験を通じて、社会
とは生成・変化し続けるものであることを知っているからこそ、ユ
ートピアという<概念>としてしか定着する筈もない主題に疑念を
抱いた。これが結論ならば、あまりにも平明すぎるではないか。 
 しかし、冷戦の崩壊以降、<宗教>と<民族>という紛争を世界
全体が超克できないままでいる、この20世紀末にふさわしいテー
マであるとも言えるだろう。なにも終わってはいないからだ。  


 作品のあらゆるところに詩情にあふれた寓話が鏤められている。
いや、この作品<キリンヤガ>自体が現代の寓話そのものなのだ。








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