SF-tuzureoriB3

TommyおじさんのSF綴れ織り(98-13)

−1998年8月2日−


『ダーク・シーカー:K.W.ジーター』


 『Dark Seeker』                
 私たちの<精神の闇部>に潜んでいる狂気を、凝視し続けること
は容易くはない。私たちの日常は、とてつもない加速感のなかで、
停滞したり、躊躇したりする隙間を与えてくれなくなって久しい。
 だが、ひとりで夜のフリーウェイを疾走する車のなかが、どんな
に特別な<私的空間>と化しているかを私たちは体験的に実感する
ことができる。どんなに運転に集中していても、周囲をすっ飛んで
いく光と影のなかで、そしてある時は好きなロックの歌詞に、また
大好きなジャズのフレーズに、ドライバーの<こころ>は漂泊をは
じめてしまう。<こころ>は浮遊する想いを停められなくなり、ひ
たすらにエンドレスの旅を繰り返す。そのとき<未来>も<過去>
のように振る舞っている。                  

 『闇の探究者』                      
 この物語も、そのような<車>という密室の場面から始まる。 
作者のジーターが、囚われている関心の向きを、このはじまりから
察知することができるだろう。そして、未だに私たちの<精神の闇
部>には「闇の探究者」が潜んでいることも隠すことはできない。

 おそらく60年代、70年代の狂熱のなかに一度は身を置いたも
のにとって、このようにして訪れる<過去>の狂気には共通したも
のがあるに違いない。この物語もまた、そのような暗いシンパシー
によって、私を招きいれた。                 
 マンソン・ファミリーを想起させるこの作品の解説に、『ドラッ
グと妄想とカルト集団の物語』と簡潔に記述される。そう、それで
この物語の解説は8割方言い当てられたと言っていい。私たちにも
「オウム真理教」、そして少し遡れば「連合赤軍」と同世代の狂熱
を簡単に想起することができる。おそらく私たちの体験のなかには
<共同幻想>にとり憑かれた同種の病的経験が潜んでいる。その狂
熱を凝視するために、P.K.ディックが読まれてきたのだろう。
私もまた、そのようにディックを読み続けてきた。ディック亡き後
このような作家が登場することは予期できた筈だ。       

 ディックほどは思弁的ではなく、解りやすいというのが、率直な
読後感だ。主人公タイラーの視線は、疾走する密室という空間から
まっすぐに過去の体験へと振れ戻っていく。ずっと、この物語を読
み進む間、私の頭蓋のなかではジャニスとヴェルベットアンダーグ
ラウンドが鳴り響いていた。ドラッグとは薬物のみを示しているの
ではない。私たちの<精神の闇部>に潜むものの象徴なのだから。
 物語の結末は、意表を突いている。私たちは、あの狂熱から引き
返す際に、どんな代償を支払ったことだろう。そして現在、敢えて
その意味を問い直すならば、このような結末になるのだろうか。 
 ジーターは、主人公タイラーの<精神の闇部>に潜んでいる狂気
の方路を示すことなく引き返していった。タイラーは現在の家族と
ともに、あまりにも容易く狂気から踵を返していった。     
 おそらくジーター自身にもその<解>はないに違いない。   
私たちが営む共同的な社会のエッジにその<解>はなく、私たちの
緊張は実はもっと深くタイトになっているのだから。      









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