SF-tuzureoriA4

TommyおじさんのSF綴れ織り(98-5)

−1998年3月30日−


『タイム・シップ:S.バクスター』


 H.G.ウェルズの「タイムマシーン」。誰もが少年期に読んだり
また読んだことはなくてもその存在は知っているだろう。    
 私も少年時代より随分遠くへやってきたので、すっかりそのお話
しは記憶のなかでセピア色に色褪せてしまっていた。だが、この作
品はかの「タイムマシーン」の続編なのである。        

 この作品には二通りの読み方がある、と思う。        
ひとつは、正統「タイムマシーン」の続編としての読み方である。
SFフリークをはじめとしたウェルズの「タイムマシーン」に造詣
のある人には、こたえられないほど面白く読めるだろう。    
 しかし、ウェルズの「タイムマシーン」に関心のない人には、こ
の古色蒼然とした物語りのはじまりはたまらなくつまらない筈だ。
どこからこの錯誤した時代感覚が生じるのか、と訝しくなる。  
 私は前者であるにも関わらず、同時に後者の感想もいだきながら
上巻(ハヤカワ文庫版)を読み進んだ。おそらく上巻から下巻のは
じめにいたる第三部までは、前者の読み方が可能な人のみ堪能でき
る。後者の方はどうか我慢して最後まで読み進んでほしい。   
 本当にバクスターらしいところ、現代物理学の関心と切り結ぶ物
語の展開は後半に隠されているからである。          

 どちらかというと、私はこうした時間旅行ものは苦手だ。   
どうしても想像力のリアリティを感じられないからである。むしろ
パトリック・オリアリーの『時間旅行者は緑の海に漂う』あたりの
アプローチのほうが好きだ。この作品はいずれ取り上げてみたい。
なぜ、私はこうした時間旅行ものが苦手かと考えてみると、たぶん
少年期の<夢>の世界に似ているからではないか、と思う。誰しも
が、過去の或る時点に戻れることなら、そこからやり直したいとい
う願望を持つであろう。                   
 大人になっても消失することのない「少年期の<夢>」に覚える
気恥ずかしさと似ているからかもしれない。もしもひたすら<夢>
でしかない空想が可能となるならば、私の現在は<空想>のように
希薄なものへと変質してしまう。そのことへの畏れが、時間旅行も
のへの違和感の根拠なのかもしれない。            

 さて、バクスターファンとしては、彼の作品系譜からみると充分
に了解可能な作品である。そう、彼の「ジーリー・シリーズ」もま
た過去と未来を自在に往来する宇宙史スペクタクルだからだ。もと
もと、私などの感じ方ではバクスターは、アシモフあたりの壮大な
宇宙史ものに匹敵するシリーズを織り成すタイプの作家に思えたも
のだ。それほどのスケールを持ってして、はじめてタイムスリップ
も壮大な仕掛けとして受容できるのだ。その壮大さが欠落すると、
<タイムスリップ>は途端に馬鹿げた空想に堕してしまう。危うい
ものだ。その意味でこの作品も後半にいたって、はじめて耐え得る
だけの壮大さを獲得できたのだ、と言い換えてもいい。     

 さて、バクスターの内なる系譜はやはり「英国SF史」に連なる
歴史的現存性にあったのだ、とよくわかった。バクスター自身が否
応なく、この歴史的系譜に晒されているのか、または彼自身の自負
としてあるのか、それはよくわからない。ウェルズからクラークな
どを経て、バクスターに至る「英国SF史」の系譜。このあたりの
ことはハヤカワ文庫版に付されている中村融氏の解説を読まれると
いい。いろいろなガジェットの謎もよくわかる。        

 作品全体を通じて、一時期流行ったビクトリア朝ものの匂いがす
る。ヨーロッパは今も19世紀を引き摺っている、とも思う。私も
スチームものは結構好きなんだ。「時間旅行」という切り口よりも
時間線の異なる多宇宙、というアプローチはSFに限らず、時流で
はある。ありえたかも知れない<異世界>、<多元宇宙>。   
そのようにして<現在>は問われ直してもいいのかもしれない。 









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