SF-tuzureoriA3

TommyおじさんのSF綴れ織り(98-4)

−1998年3月16日−


『ポストマン:D.ブリン』


 SFと映画という関係はなかなか密接なものである。この作品は
今月から各地でロードショーがはじまっているので、ケビン・コス
ナー監督・主演の、あの作品といったほうが通りがいいのかも知れ
ない。テレビのスポットCMで見られる機会も多いだろう。これだ
けを見ると、とてもSF作品とは思えないだろう。       
 ケビンの作品は「ダンス・ウィズ・ウルブズ」をはじめ、好きな
作品が多いので、特に違和感があるわけではない。しかし、あのア
メリカ映画らしい、情緒的な思い入れたっぷりの主題曲はやめてほ
しいなあ。                         
 しかし、一般にSF小説と映画とは<別もの>と考えたほうがい
いと思っているので、人気映画の原作を意図的に読むということは
ないのだが、D.ブリンの名前を見たうえは読まずにはおられなか
った。「ガイア」以来のブリンだ。彼の「知性化戦争」シリーズは
とても面白かった。シリーズ三作とも、私のSFデータベースでの
評価点は最高位の『3』である。彼の作品では「プラクティス・エ
フェクト」だけが次点の『2』である。なかなか手厳しい評価点し
かつけない私なので、私のブリンに対する思いがわかるというもの
だ。                            

 さて『ポストマン』である。映画では、第一部の「カスケード山
脈」を主体に映像化したものらしく、後半の数々のエピソードやテ
ーマが欠落していると思われる。とするならば、かなり限られたイ
メージでの「最終戦争」以降の<近未来>におけるヒューマン・ド
ラマといった味つけになっているだろうことは、想像に難くない。

 この作品でブリンは、何を意図したのだろう。この作品は85年
に書かれたもので、あの「知性化戦争」以前のものだ。「知性化戦
争」シリーズで見せた、あの闊達な<異種族>への親和的な眼差し
がブリンの本質だと、この作品でよくわかった。勿論、「ガイア」
のような科学への傾斜もブリンの眼差しには含まれているのだろう
が、彼の本質はとてもヒューマニスティックな地平にある。   
 等身大の人間として描かれるゴードン。きっと、ケビンが演じる
とこうなるだろうなあ、と手にとるように受感できる。     
なるべくケビンを想像しないように、文脈を追いながら、別の人物
像を思い描きながら読み進むように努めたのだが、どうしてもケビ
ンの表情や仕草、声といったものがちらついてしまう。なかなか、
同時期にリリースされると対応が難しいものである。      

この『ポストマン』の根柢には、<ミリシア:民兵組織>への嫌悪
がある。それは容易に理解できる。<ミリシア>については、最近
テレビでも特集が組まれたりして、一般にもかなり知れれていると
ころだが、最近の米国でのテロ事件にも多く関与が報道されている
極右武装集団というのが、もっともわかりやすい見方だろう。本書
のなかでも触れられているが、彼らの特徴はアメリカの独立戦争ま
で遡って、現在の米国政府を認めず、自らの独立を宣言するという
ような点にあるだろう。南部を中心とした極端な人種差別集団とい
う側面を持つグループもあるらしい。いずれにしても、ブリンの関
心は現在へと収斂している。                 
 この他のガジェットとしては、<サイクロプス>という人工知能
が登場するのだが、実は既に機能停止しており、主人公ゴードンの
嘘と二重に物語りを膨らませ、最終戦争以降の荒野に生きる人々の
リアリティを演出している。                 
 全編を通して、懐かしいセピアの色調が感じられる。きっと、映
画はケビンの「ダンス・ウィズ・ウルブズ」のようなヒューマンな
タッチなのだろうなあ、と思う。うん、きっと劇場にも行くことに
なるのだろうなあ。                     









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