SF-tuzureori7

TommyおじさんのSF綴れ織り(7)

−1997年12月1日−


『あいどる:W.ギブスン』

 サイバー・スペース <電脳空間>。            
今では世界で通用する常套語となったが、はじめてW.ギブスンの
『ニューロマンサー』を読んだときの衝撃は忘れられない。当時、
メインフレームのオンラインシステムでSEをしていた私に、強烈
な同時代感覚を喚起させてくれた、あの『ニューロマンサー』。 
 ビット列、2進法、16進数、ディジタルな世界にどっぷり漬か
っていた私は、多少なりとも<リアリティ;現実性>を欠如しつつ
あり、マシンと寝起きを共にするような日々のなかで、いろいろな
ものを見失いかけていたのかもしれない。擦り切れるような、いつ
も目の隈あたりにヒキツケる<痙攣>を抱えた感覚。疲れきってい
ながら、どこか高揚したままの精神。疾走する満員の地下鉄。  

 あまり記憶は定かではないが、おそらく同じ頃にP.K.ディック
原作の映画「ブレードランナー」を観た。それもまた強烈な、そし
て深い想いを与えてくれた。それについては、また機会をあらため
て語ることにしたい。                    
 それから、立て続けに『カウントゼロ』『クローム襲撃』『モナ
リザ・オーバー・ドライブ』と読みつづけ、私にとってW.ギブス
ンは特別な作家となった。彼の描く世界は、近未来を描いているよ
うでいて、実はコンテンポラリーな少し偏差のある現在の世界を描
いているのだ、ということがよくわかった。彼の描くソリッドで少
し猥雑な世界は、実はフィルターをかけた<現在>そのものである
と。80年代の後半は、すっかりギブスン熱に取り憑かれていた。

 当時はムーヴメントとしての<サイバー・パンク>という側面も
あり、B.スターリングを筆頭とする、まるで<紅衛兵>を思い出
させるようなソーシャルな活動が展開されてもいた。しかし、そう
した活動はおそらく作品そのものにはあまり関わりのないことであ
るとしか思えなかった。その渦中の頃には、あまりシンパシーを覚
えなかったムーヴメントとしての<サイバー・パンク>であったが
、作家としてのギブスンやスターリングは大好きだった。(実は当
時は距離感を覚えていたムーヴメントとしての<サイバー・パンク
>ではあるが、最近「ワイアード」の記事やインターネットに関す
るB.スターリングの発言や記事を読んでいると再評価をしたいと
すら思えてくる。彼らはマジだったんだな、と。)       
 そして90年代に入って、両雄の共著となる『ディファレンス・
エンジン』が刊行されたときには、久方ぶりに興奮したものだ。 
 本作は『ヴァーチャル・ライト』に続く、邦訳された90年代の
単独長篇2作目となる作品である。その名も『あいどる』。   
 実は、昨年末には既に「ワイアード」に抄訳が掲載され、作品の
一端には触れていたので、なぜか読み始めてからも<馴染み深い>
世界に異和感なく浸ることができた。             

 ギブスンは前作よりも更にシンプルに、<物語>を編んでいる。
<ネットランナー>=レイニーと<ロー/レズ・ファン倶楽部の少
女>=チアを軸としたプロットが交互に織り込まれ、読み易いとさ
え言えるだろう。ところで「ロー/レズ」とは物語のなかでは、絶
大な人気のロック・デュオのこと。登場するガジェットも、いわば
カウンターカルチャーに帰属するようなものばかりで、情報ネット
ワークへの過度の関心を取り除くと、SFとは形容しにくいくらい
だ。もともとSFという範疇に拘泥する必要はまったくないと思っ
ているから、党派的な意味合いとして言っているのではない。  
(と言いながら、書店に行くと必ずSFコーナーに立ち寄る習性を
「党派的」と言わず、なんと言う!! ふふふ。)       
 SFとは本来的に、現在に対する一種の<批評>として存立して
きたのではないか。あらためて、そう感じた。         

 相変わらず、ギブスンは欧米人から見た<日本>に御執心だ。 
私などの感じでは、東京もそれほどディジタルな<場所>ではない
と思う。ギブスンの描く<チバ>や<TOKYO>は遍在する現在
の<都市>の象徴でしかない。そのことはギブスン自身が了知した
うえで描いていることも充分に読みとれるだろう。だが、それらの
都市の暗渠に吹き溜まる<空気>について、これほど鮮明に描ける
作家も少ないだろう。(最近では『VURT』のジェフ・ヌーンく
らいだろうか。)                      
 <TOKYO>のフィジカルなところはよく描かれているとも思
う。表題の『あいどる』については、あまりここで触れなくても良
いだろう。                         
 ヴァーチャル・アイドルとしては現実にホリプロの《伊達杏子》
も存在している。しかし、この物語はヴァーチャル・アイドルへの
関心で成立しているのではないことも自明だ。ここでも、作家の関
心は<人工知能><サイバーネットのニッチ>といったベクトルへ
向かっている。そして、言うまでもないがこの作家の本当の関心は
『人間』自身に向かっているのだ。              
 主人公レイニーが「注意欠陥障害」の治療のために投薬されたこ
とによってネットランナーとしての特質を身に付けたというくだり
は、『人間』自身の<心的>な世界へのこだわりを見せている。あ
まりにもさらっと書かれているので読み過ごさないように。   
 しかし、一方でこのレイニーという主人公は、実は擬人化された
<エージェント>でしかないとも言える。構造化され、交錯するデ
ータ群の<結節点>・ノーダルポイントを察知する、レイニーの嗅
覚的なネット上での活動はどう見ても、<エージェント>(ネット
内部で人間の代理人として振る舞う小さなプログラム・ソフトウェ
ア)でしかありえない。                   

 そしてヴァーチャルスペースに再構築された<九龍城砦>。私が
香港を訪れた頃、閉鎖されたばかりで何度もTVニュースを賑わせ
ていたことを思い出す。香港島のホテルの裏窓から見た、山の斜面
にひしめき合うビルの灯りの満艦飾のきらびやかな夜景。私の住む
広島市の商工センターにある高層アパートからも、鈴ケ峰から井口
台にかけての夜景は美しい。香港島の十分の一くらいではあるが。
そのような連想を次々とイメージ喚起する作家を、敬愛をこめてこ
う呼ぼう。 《コンテンポラリー・シンクロニズム》、と。   









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