SF-tuzureori3

TommyおじさんのSF綴れ織り(3)

−1997年11月1日−


『内なる宇宙:J.P.ホーガン』

 私たちの視覚神経では再構成できない<光>がある。     
 私たちの聴覚では拾うことのできない<音色>がある。    
私たちは、そのような限定的な自画像を前に、<第六感>のような
ものを信じてもいい、とすら思ってしまう。私たちは、この宇宙に
ついてただ無知なだけではなく、感知すらできない事象があること
に愕然とする。そして、未だ遭遇していない私たちとは異なる知的
生命に思いを馳せる。それはまるで、自己を探究する旅の写像のよ
に、内省と渇望に満ちている。                

 1970年代後半の名作「星を継ぐもの」は、A.C.クラーク
の「2001」を彷佛とさせながら、その硬質の知性とセンス・オ
ヴ・ワンダーに満ちた作品の展開が私を強烈に捕捉したのだった。
 続く「「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」までの三部作
は、私がホーガン・ファンとなることをますます加速させた。  
 「創世記機械」「未来の二つの顔」「未来からのホットライン」
「断絶への航海」「造物主の掟」「プロテウス・オペレーション」
70年代後半から80年代半ばまで続々と発表された作品は、濃淡
の差こそすらあれ、私の期待に応えてくれるものだった。    
 しかし80年代後半から発表された作品は、ホーガンという作家
の印象を変えるほどの変貌を見せていく。ハードSFとしての味わ
いを残していたのは「終局のエニグマ」くらいまでだった。   
「ミラーメイズ」「インフィニティ・リミテッド」「マルチプレッ
クスマン」「時間泥棒」。いったいホーガンは何処へ赴こうとして
いるのだろうか、と溜息ばかり出た。ホーガンが、何をどのように
表現したいと欲求しても、それは私の関与するところではない。 
 しかし、私には彼の志向が『サスペンス』と『ファンタジー』へ
と確実に転位したようにしか思えなかった。          

 前回、ホーガンをこのようなトーンで『古色蒼然』と評したこと
もあって、今回はこの「内なる宇宙」を取り上げることとした。 
「内なる宇宙」は93年に単行本として出版されており、いわゆる
巨人三部作の続編として登場した。そのときもホーガンが帰ってき
た、と嬉しくなったものだった。               
 そしてこの8月に文庫として再出版された。思わず購入し、再読
してみた。やはり、この作品はホーガンらしさ、センス・オヴ・ワ
ンダーに満ちている、と再確認できた。前半は最近のホーガンの欠
点とも思える、ストーリーテラーとしての伎倆開陳といった冗長さ
に、疲れさえ感じてしまうが、後半の運びは実にホーガンらしい。
 惑星規模の人工知能システム内部に発生した「宇宙」。また、そ
の細部の描写にこだわる科学者魂。              
 あまりにクリアに描かれる世界像に多少鼻白んでしまうが、この
辺りもホーガンらしい。と言っても、人工知能の登場しない近未来
SFはないのではないか、と思える最近の状況のなかでは、着想が
特に目新しいわけでもない。既に、W.ギブスンやブルース.スタ
ーリング、そしてジェフ.ヌーンの描きだす近未来の、非20世紀
的世界を体験した私たちにとっては陳腐ですらある。未来を私たち
の倫理で推し量ってはならない、とすら思う。どこまで行っても、
私たちの時代の倫理は、現在としか刺し違えることができない、と
思うからだ。                        
 しかし、最近のホーガン作品のなかでは「内なる宇宙」はとても
魅力的である。これからホーガンの近作が続々と邦訳され、文庫で
登場するらしい。さて、どのようなホーガンに出会えるだろうか。









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