SF-tuzureori2

TommyおじさんのSF綴れ織り(2)

−1997年10月25日−


『輝く永遠(とわ)への航海:G.ベンフォード』

 人類の蓄積された「種」としての記憶は、いったいどれだけ遡る
ことができるのだろうか。勿論、ホモサピエンスが産まれたときの
記憶を、私たちは自らのDNAに隠しもっているとしても、その記
憶を自明のものとして、自ら探索することもできない。     
 或いは、人類の共通の記憶とは文字や印刷物(ディジタルコード
を含めて)として表象されたものと限定していいのかもしれない。
いずれにしても、その記憶の時間的距離は驚くほど短いものだ。 

 母惑星「地球」の保有する「時間」と較べるならば、私達は蜉蝣
のような存在でしかない。                  
 このような自明の事実に覚醒するとき、私達はいつも同じ問いに
突き動かされる。「私たちはいったい何処からやって来て、いった
い何処へ行こうとしているのか」と。             
 或いは、こういう視角から見直してもよい。私たちは有機生物で
あり、その身体は化学的な組成物であり、それはとても傷つきやす
く、個体は100年の時間にも耐えられない、と。        

 グレゴリー.ベンフォードの自己認識、人類自身への見事な自認
を表わす比喩に「夢見る脊椎動物」という言い回しがある。私はこ
の比喩は見事だと思う。                   
 私たちが<夢>や<笑い>を好む一方で、常に<切なさ>や<脆
さ>や<哀しさ>に心動かされるのは、私たちがどこまで行っても
「夢見る脊椎動物」でしかありえないからだ。私たちの限定的な化
学的、有機的身体は、この母惑星の表層に張りつくように生存して
いるうちは未だしも、いずれ太陽系の外へ進出する頃にはその脆さ
危うさに自らの脆弱さを呪うことがあるかもしれない。だが、私た
ち一人ひとりは、短いサイクルで滅んでゆくかもしれないが、人類
はその有機的再生産によって、綿々とその歴史<人類史>を連ねて
いくことも事実である。今までに表象された<記憶>よりも長い時
間に耐えていくことができるかもしれない。しかし、それも母惑星
や太陽系や、この宇宙の時間史から比べるならば<泡沫>と言える
だろう。どのような種にも終焉はやってくることも間違いない。 
「恐竜」たちが、この地球の表層から消え去ってしまったように。
 人類が自らの種の終焉を知覚できることがあるとしたら、人類は
誰にその歴史を継ごうとするだろうか。無機的生命、人工知能、知
性を持つ機械たち。私たちの想像の飛翔力はたやすくその地平を訪
れることができる。私もまた、そのような夢想に溺れていたことが
あった。その頃、G.ベンフォードの「夜の大海の中で」に出会っ
たと記憶している。本書は、そのシリーズの完結編である、と言わ
れている。「夜の大海の中で」そして「星々の海をこえて」「大い
なる天上の河」「光の潮流」「荒れ狂う深淵」、本書『輝く永遠の
航海』と続いた作品群。20年近い時間をかけて、ベンフォードは
同じ主題の変奏曲を書き連ねてきたのだ。その持続的営為に敬意を
表したい。(系統はちがうが、「アレフの彼方」も名作だった。)

 さすがにこれだけの連作を読みつづけてくると、登場人物も馴染
みとなってしまうのだが、ナイジェルにしてもビショップ族のキリ
ーンやトビーにしても、その心象の彫りは深くなっている。驚くこ
とにメカ生命のマンティスさえもがその陰影を深くして現れた。 
初期の作品の「メカ対人類」という薄弱な対立は止揚されて、「知
性が宇宙自体の終焉に、どのように処しようとするのか」という大
主題に変奏されていく。そのとき、私たちも<種>という限定性を
を越えて、まだ出会ったことのない「知的生命」たち、異質の有機
生命やら磁気生命といった広義の知性たちを「門」(ファイラム)
として認知する。メカ生命たちをも、ひとつの「門」と了解する。
どのような知的存在もエネルギーの渦動である、と。      
そして、そのような認知は「私たちは全ての渦動(宇宙)の終焉に
立ち向かう、どのような知性を構想することができるのか」と問う
ている。                          
 それらの問いは常に「此処に在る」私たちのレーゾンデートルを
も問おうとしている。                    

 ところで、宇宙物理学者であるベンフォードのことである。本書
でも充分に私たちを楽しませてくれる。折れ曲がった時空が、銀河
中心の巨大なブラックホールの傍に閉じられた世界として成立する
ところなど、ハードSFの雄としての面目躍如といったところか。
随所に知的好奇心を満たすエッセンスが鏤められているし、高次の
のメカ生命同士のダイアローグは哲学的ですらある。冬川亘の邦訳
も冴えており、嘗てハードSFの隆盛を担った作家たちが皆色褪せ
ていくなかで、孤軍奮闘し、充分コンテンポラリーな作品となって
いる。最近、私からみれば残念でならないJ.P.ホーガンの古色
蒼然とした作品などよりも、ずっと現在性を手放さずにエッジを歩
んでいる、と言えるだろう。                 

 最後に、私の好きなキリーン(人類)とマンティス(メカ生命)
との対話の一節を引用して終わろう。人類より進化したメカ生命で
あるマンティスが人類を羨望するくだりである。この醒めた自認が
背景輻射としてあるからこそ、ベンフォードは面白いのである。 

『おまえたち霊長類は、典型的な古形態だ。おまえたちの神経終末
 の大部分は外皮に集中しているから、おまえたちは自身の体内で
 起きていることを、ほとんど意識せずにいる。明らかに、メンテ
 ナンスのためにではなく、快楽のために形づくられた生きものだ
 。しかも、その不釣合いなほどの大きな部分が、生殖器と味蕾に
 置かれている。また、繁殖器官と排泄器官とが、興味深い進化的
 収斂を見せている。どのようなデザインも、絶対にそのような機
 能の二重化に賛成はしないだろう。排泄は、どうあっても、繁殖
 に必要とされる衛生学的条件に干渉してはならない。進化はこの
 自明な事実を無視して、官能に味方をしている。この特徴をわれ
 われは欠いており、うらやましいと思っている。』      









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