SF-tuzureori1

TommyおじさんのSF綴れ織り(1)

−1997年10月22日−


−序に替えて−

 おじさんがSFなるものを読み始めたのは小学3年生の頃だった
ろうか。                          
 以来、SFとは疎遠になっていた時期が一時あった。     
それは高校生のときのことで、ヘルメットとXX棒とモロゾフ・カ
クテルの三種の神器を着用していた、ちょっと過激な時期のことだ
った。そこを通過し、神経症患者の治癒過程のような数年を経て、
また、なんとなくSFとはずっと付き合ってきている。     
 全体の読書時間のなかで、SFの占める割合が再び多くなったの
は、サラリーマンになって電車通勤を始めた頃からかなあ。   
変なオープニングです。           



      『3001:A.C.クラーク』         


 さて、私のSFフリークとしての歴史的記念碑といえば、文句無
くこのスペース・オディッセイシリーズの処女作「2001」であ
る。映画と小説のダブルパンチに、私の受けたショック度はかなり
なものだった。そして、人工知能の姿を明晰に描き出したHAL。
 HALはその後、仕事でもコンピュータのSEになった私の個人
的なモチベーションを大いに発揚してくれたものだ。      
本気で”HALとはIBMをシフトさせた文字列”だと、強烈な時
代感覚を表していたのだと永く信じていた。クラーク本人は否定し
ているけれどもね。私がSEだった頃は、IBMは本当に巨人だっ
たからね。                         

 個人的にはA.C.クラークの作品で日本(日本語)で発刊され
ているものは全て読んでいると思うのだが、今でもそのなかでは 
「2001」と「幼年期の終わり」に尽きると思っている。   
「宇宙のランデヴー」シリーズも好きだけれどね。       

 ところで、The Final Odyssey(終局への旅)とサブタイトルの
ついたこの一冊、正直な感想は「巨匠の終幕」とでも言おうか、こ
のシリーズの基本コンセプトを守ったまま巨匠クラークは幕をひこ
うとしたとしか思えない。言い換えれば、そこには「劇的」なベク
トルの変換も、読み手を震撼させるダイナミズムも存在しない。 
 戻ってきたディスカバリー号の副長フランク・プール、そして新
しい生命を宿して封印されたエウロパの行く先、とてもわかりやす
い設定で読む進むのもしんどくないし、「宇宙エレベータ」の再登
場など、クラークらしさに溢れてはいた。しかし、1960年代末
期から70年代初期の陰鬱な政治状況のなかで、あの「2001」
から受け取ったメッセージの再来を、期待するほうが野暮というも
のだったのだ。                       
 そもそも巨匠はとても現実的な人で、常に現実の肯定的な延長線
に想像力を駆動させていた人なのだからね。          
ということで、この「3001」自体の書評的な接近は省いたまま
雑感へ雪崩れ込むこととしよう。               

「巨匠」といえば、今年、二人の巨匠の終幕となる作品を読んだ。
アイザック・アシモフの「銀河帝国興亡史7・ファウンデーション
の誕生」と埴谷雄高の「死霊3」である。前者は解説も要らぬSF
界の巨匠アシモフの人気シリーズの完結編である。ハリ・セルダン
にはじまる壮大な叙事詩に敬意を表するとしても、「3001」と
同様に、現在の私を突き動かす「危うさ」や「錐の先」を感じさせ
てくれることはないままに幕がひかれた。           
 後者は「死霊」シリーズを通じて、ずっと付き纏っていた「難解
さ」のベールがはがれていく想いを感じた。これは勝手な読み込み
なのだが、現在の物理科学の進歩で、たとえばS・ホーキングの提
示する宇宙観などに対して覚える「私」という観念との躓くような
乖離感覚を、既に埴谷は提示していたのだ、とあらためて新鮮な感
動を覚えたものだ。こちらは完結編とならなかったところが、また
埴谷らしいと思う。あらためて埴谷は常に状況のエッジを歩んでい
たのだな、と畏敬の念に打たれる。              
 いずれにしても、あらためてSF界の巨匠アシモフと戦後日本文
学の巨匠、埴谷に哀悼の意を表したい。            







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